行動経済学の理論の一つに「ナッジ理論」があります。2000年に入って米国で提唱されたこの理論が社員の自主性を引き出す新しいマネジメント手法として応用され、ビジネスの世界でさかんに採用され始めています。会社が強制するのではなく、社員自身が主体性をもって前向きに業務に取り組むことを可能にしたナッジ理論とはどういうものか、今回は人事面での具体的な応用例なども交えながら解説します。
ナッジ理論とは?
ナッジ理論とは、2017年にノーベル経済学賞を受賞した米国のリチャード・セイラー教授らによって提唱された行動経済学理論の一つです。ナッジ(nudge)とは「肘などで軽くつつく」「背中を押す」といった意味で、強制せず軽く注意を促しながら望む方向に相手の行動を促すといった考え方が理論の柱になります。理論のもとになった行動経済学は経済学に心理学や社会学などの要素を織り込み、より現実に近い意思決定の在り方にアプローチしており、合理的な人間像を前提とする伝統的な経済学と一線を画すものです。行動経済学にナッジ理論を組み合わせると、人間の行動の非合理な面も数値的にモデル化しながら意思決定の在り方に影響を及ぼすことができるとされています。この理論は世界的な規模で浸透し、さまざまな企業活動や公共政策などにその応用事例を見ることが可能です。
直接的に働きかけないで、しかも望ましい方向に相手を導くというナッジ理論を支える枠組みとして、「EAST」とよばれる実践プロセスを押さえておく必要があります。「EAST」とは「Easy(簡単・簡潔)」「Attractive(魅力的)」「Social(社会性)」「Timely(タイムリー)」の頭文字を取った名称で、ナッジ理論を施策に活用したイギリス政府が後に検証して効果的であったと結論付けた4つの要素を指します。
「Easy(簡単・簡潔)」とは、行動の内容をシンプルにすることです。取り組まなくてはならない事柄が複雑で難解であればあるほど、相手は行動を起こしにくくなります。相手に行動を促そうとすれば、自分が何をすればよいのかわかりやすい形で提示することが大切です。「Attractive(魅力的)」とは、「その行動を起こせば自分にとって有利になる」と相手が感じられる内容にして提示するということです。有利になるとは「得をするか損をしないか」の二者択一ですが、行動経済学では人は得をするよりも損をしない方に価値を置くことが知られています。そのため、相手が損をしないという選択肢を与えた方が行動を起こしやすくなります。「Social(社会性)」とは、社会的に役立つ行動であるという点を伝えることです。他人と違う行動を取っている場合に社会性の輪から外れているのではないかと感じがちな心理傾向を利用して、他者と同じ行動をする方が良いという方向に導くこともできます。「Timely(タイムリー)」は、行動を促すための働きかけのタイミングを決めることです。行動変容を促すには時機に合ったタイミングを逃さないことが大切で、適切な時機を逃すと働きかけの内容が同じでも相手に行動させることができなくなる場合があります。
ナッジ理論が身近に用いられている具体例は?
ナッジ理論の応用例は、身近なところで数多く見ることができます。例えば、省エネの促進を狙って環境省が行った施策はよく知られています。それは請求書の記載内容に送付世帯と同じ世帯構成の電気・ガス使用量を付け加えて節電による料金の違いを知らせるというもので、ナッジ理論の「Attractive(魅力的)」に見られる「損をしたくない」という気持ちを刺激して省エネ行動を促そうというものです。
別の事例では、公共機関などで窓口に並ぶ導線に足あとの表示がプリントされているのを見かけたことがある方が多いのではないでしょうか。利用者は誰に言われるわけでもなく自然にこの足あとの上に並ぶようになり、結果的に適度な距離が保たれるようになっています。これはソーシャルディスタンスをストレートに訴えるのではなく、足あとの表示を見て利用者の「Social(社会性)」を刺激するもので、やはりナッジ理論が応用されている例です。
他にも、飲食店に行くと「店長のおすすめ」といったメニューを見ることがあるでしょう。数あるメニューの中から何にするかを選ぶのは、実は利用者にとって少なからず負担を感じる心理的作業です。実際におすすめメニューは売上げ効果が高く、飲食店だけでなくスーパーマーケットなどでもこれらの表示を目にする機会は多いです。これらもやはり無意識のうちに誰かに決めてもらいたい、楽をしたいという「Easy(簡単・簡潔)」を刺激したナッジ理論の一例です。
ナッジ理論はビジネスの世界でどう活用されている?
身近に見られるナッジ理論ですが、実はビジネスの世界でもその効果が注目されており、特に人事におけるマネジメント分野では多くの企業ですでに導入、活用が行われています。マネジメントを行う立場であれば、人を動かすことの難しさを痛感しているのではないでしょうか。会社が新たに決定した施策が社員の間になかなか浸透しない、無理にやらせようとすると反発を受けてかえって実行速度が遅くなるといったジレンマは程度の差はあれ、さまざまな組織の中で生じがちな課題と言えます。通常業務においても、社員が積極的に自らの業務へのモチベーションを高め、やりがいをもって仕事に取り組むためにはどのようなマネジメントを行うのが効果的か、人事面での働きかけが重要なポイントになってきます。
そこで活用されるのがこのナッジ理論です。ナッジ理論を効果的にマネジメントに取り入れることができれば、社員との良好な関係を保ちながらモチベーションや仕事のパフォーマンスを向上させることが可能になります。ナッジ理論では、「Easy」「Attractive」「Social」「Timely」が効果的な4つの要素であることを確認しました。さらにこの4つの要素を補完して、より確実に課題を解決するためのテクニックがあります。それが「デフォルト」「フィードバック」「インセンティブ」「選択肢の構造化」という4つの手法です。「デフォルト」とは選んでほしい行動をあらかじめ選択肢に入れることで、「フィードバック」は行動を評価し改善点を促すこと、「インセンティブ」は行動に見返りを与えること、「選択肢の構造化」は複数の選択肢を選びやすいように構造化することを指します。これらを効果的に組み合わせてビジネスの現場に落とし込んでいくことで会社の課題が浮き彫りになり、組むべき対策も明確になります。
それでは、ナッジ理論を利用した具体的なマネジメント例を見ていきましょう。まず、挙げられるのは「目標の分割」です。会社の方針に沿った新しい施策に取り組むにしろ、通常の業務を行うにしろ、ゴールの目標を見せただけでそこに向かって頑張れと発破をかけても全ての社員が付いてこられるわけではありません。それよりも目標を小さく分割し、スモールステップを重ねながら目標をクリアしていく達成感を味わう方が仕事への自主性も生まれやすくなります。ナッジ理論の「Easy」を利用して社員の取り組みやすさを引き出すことが大切です。
目標を分割すると、分割前に比べて進捗状況を確認する頻度も増えてきます。状況確認に際しては「どう?」といったような漠然とした問い掛けは混乱を招くだけです。会話の冒頭では、ナッジ理論の「Easy」と「選択肢の構造化」を応用して、まず現状確認や問題点、サポートの必要性などを聞くようにしましょう。社員は報告すべきことが整理され、バックアップも得られるという安心感が高まって話しやすくなります。対話のレベルが上がり、コミュニケーションが円滑になると信頼関係も深まって社員のやる気アップにつながります。
分割した目標に対する達成度に応じて定期的なフィードバックを行うことも、社員のやる気を引き出すという点では大切になります。自分が常に評価されていることを自覚すると人は承認欲求が満たされ、注意事項に対しても前向きに取り組むようになります。これはナッジ理論の「Attractive」と「フィードバック」「インセンティブ」を活用したものです。定期的なフィードバックと同時に、定期的にリマインドを行うことも大切です。リマインドは目標を分割したことによって細分化され、数を増したタスクに対して取り組み忘れなどがないよう適宜注意を促すことです。ナッジ理論の「Social」「Timely」や「フィードバック」によるもので、会社のサポートを実感したり、チームワークの意識が強化される効果も生まれます。フィードバックやリマインドをデフォルトにして定期化を習慣づければ、社員の向上心アップに良いサイクルが定着してくるでしょう。
身近にも具体例が豊富なナッジ理論はビジネスにおける人事やマネジメントにも高い効果を発揮する
相手に直接働きかけることなく、望む方向に相手を導く「ナッジ理論」はビジネスの世界にも応用され、人事やマネジメントの分野で高い効果を発揮しています。社員がなかなか思うように動いてくれないという悩みがあるなら、円満な関係を壊すことなく自主的なやる気を引き出すことができるこのナッジ理論を導入してみてはいかがでしょうか。
この記事を読んだあなたにおすすめ!