人事・組織開発の仕事をしていると、こんな言葉を耳にすることがあります。

「部下との対話が大切なのは分かっています」
「権限委譲が必要なのは分かっています」
「顧客視点が重要なのは理解しています」
「経営理念を、日々の仕事に落とし込まなければならないことも分かっています」

ところが、数カ月後に職場を訪れてみると、行動はほとんど変わっていない。
部下との対話は相変わらず後回しになり、重要な仕事は上司が抱え、会議では上司ばかりが話し、経営理念は額縁の中に飾られたままになっている。
これは、社員の「意識が低い」からなのでしょうか。必ずしもそうではないと考えます。むしろ、多くの人は「何が大切なのか」を十分に知っています。問題は、その「知っている」が「やっている」に変わっていないことにあります。
この「知識」と「行動」の間にある隔たりは、Knowing–Doing Gap(ノウイング・ドゥーイング・ギャップ)と呼ばれます。
そして、この問題を考えるうえで、約300年前に書かれた一冊の書物が、意外な示唆を与えてくれます。江戸時代中期の商人・思想家、石田梅岩の『都鄙問答』です。現代の経営学で語られるKnowing–Doing Gapと、江戸時代の商人思想。一見すると、まったく異なるテーマに見えるかもしれません。しかし両者を重ねてみると、現代の人材育成や組織開発において、極めて本質的な問いが浮かび上がってきます。

それは、

「正しいことを知るだけで、人は本当に変わるのか?」

という問いです。

なぜ「分かっているのに、できない」のか?

Knowing–Doing Gapの難しさは、「知らない」ことではありません。知らないのであれば、教育すればよい。知識が不足しているのであれば、研修を実施すればよい。しかし、「分かっているのに行動できない」となると、問題はもっと複雑になります。

例えば、管理職に、「部下を育成するために重要なことは何ですか?」と聞いてみます。
おそらく、部下の話をよく聴く

  • 適切にフィードバックする
  • 仕事を任せる
  • 失敗から学ばせる
  • 定期的に対話する

といった答えが返ってくるでしょう。
ところが、現場ではどうでしょうか。

「自分でやったほうが早い」と仕事を抱え込む。
「今は忙しいから」と対話を先送りする。
部下が失敗しないように細かく指示する。
問題が起きると、本人に考えさせる前に上司が答えを出す。

つまり、

「知っていること」と「実際にやっていること」の間には、大きな距離がある。

これは管理職だけの問題ではありません。

営業担当者も、「顧客の話を聴くことが大切」と知りながら、自社商品の説明から始めてしまう。
人事担当者も、「現場の声を聴くことが重要」と理解しながら、制度を人事部だけで設計してしまう。
経営者も、「現場が大切」と言いながら、経営会議と数字の確認に多くの時間を費やしてしまう。

だからこそ、組織において本当に問うべきなのは、

「何を知っているか」だけではなく、「知っていることを、何に変えているか」

であると考えます。

約300年前、石田梅岩は「仕事の実践」をどう考えたのか?

ここで登場するのが、石田梅岩です。梅岩は江戸時代中期に活躍した思想家であり、商人の立場から「人はどのように生き、どのように仕事をするべきなのか」を考えました。
その代表的著作が『都鄙問答』です。
『都鄙問答』は、問答形式でさまざまな問題を取り上げ、人間の生き方や仕事のあり方を論じています。特に興味深いのが、商売と利益についての考え方です。当時、商人は利益を得ることについて、道徳的にどのように考えるべきなのかという問題を抱えていました。梅岩は、商売によって利益を得ること自体を否定しませんでした。

重要なのは、

「どのように利益を得るのか」

ということです。

その考えを表す言葉として、次の一節が知られています。

「実の商人は先も立、我も立つことを思うなり。」
相手も成り立ち、自分も成り立つ。
自分だけが利益を得ればよいのではなく、相手にも価値を提供し、その結果として自分も成り立つ。

現代の企業経営に置き換えるなら、「顧客価値と企業価値の両立」とも考えられるでしょう。
ここで注目したいのは、梅岩が単に「相手も自分も大切にしましょう」という理念を掲げただけではないことです。
その考えを、商売という日々の実践の中でどう実現するのかが重要だったのです。
ここに、現代のKnowing–Doing Gapを考えるヒントがあります。

「道を知る」と「道を行う」は、なぜ違うのか?

梅岩の思想を現代的な視点から捉えると、非常に重要なことが見えてきます。

それは、

「道を知ること」と「道を行うこと」は違う

ということです。
これは、現代の企業経営にもそのまま当てはまります。

例えば、「顧客第一」という経営理念を掲げている会社があるとします。

社員もその理念を知っています。
研修でも説明されています。
社内ポスターにも書かれています。

しかし、営業担当者が売上目標を達成するため、
「顧客にとって本当に必要なのかは分からないが、この商品を提案しよう」
と判断したらどうでしょうか。

そこには、

「理念を知っていること」と「理念に基づいて行動すること」のギャップ

があります。

一方、
「この提案は本当に顧客にとって価値があるのか」
「短期的な売上だけではなく、長期的な関係につながるのか」

と考えて意思決定できれば、理念は単なる言葉ではなく、行動の判断基準になります。
つまり、理念浸透とは「理念を覚えてもらうこと」ではありません。
理念を、日々の意思決定に使える状態にすることです。

「知っている」を「できる」に変えるには、何が必要なのか?

では、KnowingとDoingの間にあるギャップを、どう埋めればよいのでしょうか。
ポイントは、抽象的な価値観を具体的な行動に翻訳することです。

例えば、「部下を育成する」という言葉だけでは、具体的な行動につながりにくい。
そこで、「毎週一人の部下と15分間、仕事について対話する」まで具体化します。

「顧客第一」なら、「重要な提案をする前に、顧客にとってのメリットとリスクを確認する」とする。
「部門間連携」なら、「重要案件では、意思決定前に関係部門との確認時間を設ける」とする。

このように、理念→行動、価値観→習慣へと翻訳する。
これがKnowing–Doing Gapを埋める第一歩です。

そして重要なのは、その行動を一度だけ実施して終わらせないこと。

繰り返すことです。
やがて習慣になる。
習慣が周囲にも広がる。
そして、組織の文化になる。

つまり、

Knowing → Doing → Habit → Culture

という流れです。

「部下の主体性を高めたい」管理職が、最初に変えるべきこと

ここで、一つの管理職の例を考えてみましょう。

ある企業で、「部下の主体性を高める」というテーマで管理職向けの取り組みを行いました。

ある管理職は、
「部下にもっと考えさせたほうがいいことは分かっています。でも、忙しいと、つい自分が答えを出してしまうんです」
と話していました。
そこで、その管理職は一つだけ行動を変えることにしました。
部下から相談を受けたとき、すぐに答えを教えるのではなく、

「あなたはどう考えているか?」

と、まず問い返すことにしたのです。
もちろん、最初からうまくはいきません。
部下から「分かりません」と返されることもあります。

それでも、
「では、どんな選択肢が考えられるか?」
「それぞれのメリット・デメリットは?」
と相手のペースに合わせて、問いを重ねる。
すると、少しずつ部下の発言が変わっていきます。

やがて、
「私はこう考えています」
と、自分の意見を持って相談するようになる。

この変化を生み出したのは、新しい知識ではありません。
その管理職は、もともと「部下の主体性が重要だ」と知っていました。
変わったのは、

「知っていること」を「一つの行動」に変えたこと

でした。
人材育成や組織開発において、こうした小さな行動変容こそが重要なのです。

研修をしても組織が変わらない、本当の理由

「研修を実施しているのに、なかなか現場が変わらない」
これは、多くの企業が抱える悩みです。
しかし、問題は必ずしも「研修の内容」にあるとは限りません。
研修で得た知識が、職場での行動に変換されていない可能性があります。

例えば、

「1on1の重要性を理解した」
だけでは、組織は変わりません。
「毎週、部下との1on1を実施するようになった」
ところまで進んで、初めて行動変容が起こります。

「権限委譲が重要だと理解した」
だけではなく、
「これまで自分が判断していた仕事の一部を部下に任せるようになった」
ことが重要です。

「経営理念を理解した」
だけではなく、
「重要な意思決定の際に、理念を判断基準として使うようになった」
ことが重要です。

つまり、研修や人材育成を、

「何を学んだか」

だけで評価するのではなく、

「職場で何が変わったか」

まで見る必要があります。

研修はゴールではない。
行動変容のスタート地点なのです。

組織文化は「掲げた言葉」ではなく「繰り返された行動」でつくられる

これは、組織文化にも当てはまります。
企業には、多くの立派な言葉があります。

「挑戦」
「顧客第一」
「共創」
「誠実」
「主体性」
「人を大切にする」

どれも重要な価値観です。

しかし、組織文化を本当に決めているのは、掲げられた言葉だけではありません。
実際にどのような行動が繰り返され、何が評価され、何が許容されているか。
そこに、本当の組織文化が表れます。

「挑戦しよう」と言いながら、失敗した社員を責める。
「権限委譲しよう」と言いながら、上司がすべての判断を覆す。
「対話を大切にしよう」と言いながら、会議では上司だけが話す。
こうした状態では、社員は「言葉」ではなく「実際の行動」を見て学びます。

だからこそ、組織変革において重要なのは、

「何を掲げるか」ではなく、「何を繰り返すか」。

この視点です。

人事・組織開発に求められるのは「知識の提供」から「行動変容」へ

ここまで見てくると、人事・組織開発の役割についても、一つの変化が見えてきます。
これまでの人材育成では、
「何を教えるか」
が重視されてきました。
もちろん、知識は重要です。

しかし、これからの人材育成では、

「学んだことを、どう行動に変えるのか」

まで設計することが、ますます重要になるでしょう。

例えば、管理職研修を実施するのであれば、

「研修で何を学んだか」だけで終わらせない。
「研修後、一つだけ何を変えるのか」を決める。
その行動を実践する。
上司や人事が確認する。
必要であれば周囲からフィードバックを受ける。
そして、次の行動につなげる。
このサイクルを回す。

人事制度についても同じです。
「挑戦を評価する制度」をつくるなら、評価項目を変更するだけでは不十分です。

実際の評価面談で、上司が挑戦行動をどう扱うのか。
失敗したときに、どのような対話をするのか。
昇格や配置の判断に、どのように反映するのか。

制度と運用、そして現場の行動がつながって初めて、制度は組織を動かす力を持ちます。

石田梅岩から現代の経営者・管理職が考えるべきこと

『都鄙問答』をKnowing–Doing Gapという現代的な視点から読み直したとき、梅岩から学べるのは、
「正しいことを知ろう」
ということだけではありません。

むしろ、

「正しいと思うことを、日々の仕事の中でどう実践するのか」

という問いではないでしょうか。

経営者であれば、
「自社の理念を、経営判断にどう反映しているか」
を考える。

管理職であれば、
「自分が重要だと考えているマネジメントを、実際にどの程度実践しているか」
を考える。

人事であれば、
「人材育成や組織開発で掲げている価値観が、制度や運用に反映されているか」
を考える。

社員一人ひとりであれば、
「自分が大切だと考えている仕事の姿勢を、今日の仕事で実践できているか」
を考える。

Knowing–Doing Gapは、誰か特定の人の問題ではありません。
組織で働くすべての人に関係するテーマなのです。

「知っている」ことが増えている今だからこそ、問いたいこと

現代は、かつてないほど「学ぶ」ことが簡単になりました。
書籍、研修、動画、オンライン講座、生成AIなど、知識を得る手段はいくらでもあります。
だからこそ、私たちは「知っていること」を増やすことに意識を向けすぎているのかもしれません。

「それは知っています」
「以前、研修で習いました」
「本に書いてありました」

そう言えること自体は、決して悪いことではありません。

しかし、そこで一度立ち止まってみる。
そして、次の問いを投げかける。

「では、実際に何をしていますか?」

この問いは、シンプルですが本質的です。

知識は必要です。
理念も必要です。
方針も必要です。

しかし、それらが行動に変わらなければ、組織に変化は起こりません。

Knowingは、Doingにつながって初めて価値になる。
そしてDoingが繰り返されることで、Habitになる。
Habitが周囲に広がることで、Cultureになる。

だからこそ、人事・組織開発の仕事とは、単に「知識を与えること」ではなく、

「人が行動を変え、その行動が組織の当たり前になる状態をつくること」

なのではないでしょうか。

おわりに――「道を知る」から「道を行う」へ

石田梅岩の『都鄙問答』が書かれたのは、今から約300年前です。
当然ながら、当時と現代では、社会も、産業も、仕事も大きく異なります。

それでも、

「人は、何を知っているかだけでなく、それをどう実践するのか」

という問いは、今も変わりません。

企業も同じです。

どれだけ立派な理念を掲げても、それが行動にならなければ組織は変わらない。
どれだけ研修を実施しても、職場で行動が変わらなければ、人材育成の成果は限定的になる。
どれだけ「変革が必要だ」と語っても、日々の意思決定やマネジメントが変わらなければ、組織は変わらない。

だからこそ、組織を変えたいときに問うべきなのは、

「何を知ってもらうか」だけではない。
「何を行動に変えるのか」

です。

そして、その行動は、必ずしも大きなものである必要はありません。

一つの会議で、部下の意見を一つ多く聴く。
一つの商談で、商品説明より先に顧客の話を聴く。
一つの意思決定で、経営理念に照らして考える。
一つの仕事を、誰かに任せてみる。

そうした小さな「Doing」が積み重なり、やがて個人の習慣になる。
その習慣が周囲に広がり、組織の文化になる。

「知っている」と「やっている」の間には、確かな距離があります。

その距離を埋めるのは、さらに多くの知識ではないのかもしれません。

まずは、一つの具体的な行動です。
約300年前の梅岩の思想を、現代の組織に置き換えて考えるとき、私たち自身にも同じ問いが返ってきます。

「道を知る」だけで終わっていないか。
「道を行う」ことができているか。

最後に問いかけたいこと

ここまで読んでいただいた皆さまに、問いを投げかけたいと思います。
組織に「知識が足りない」のではなく、「知っていることを実行していない」のだとしたら。
あなたの組織では、何がその状態を生み出しているのでしょうか。

経営者の皆さまへ

「あなたが掲げている理念は、社員の行動を本当に変えていますか。それとも、社内に掲示されている“きれいな言葉”で終わっていませんか?」
理念を語ることと、理念に基づいて経営することは同じではありません。

「挑戦」を掲げながら、失敗を許容していない。
「顧客第一」と言いながら、短期的な売上を優先している。
「人を大切にする」と言いながら、育成より目先の成果を優先している。

もしそうであれば、社員が理念を実践しないのは、社員の問題だけなのでしょうか。

経営者自身が、理念を「言葉」ではなく「意思決定」で示しているか。

そこから問い直す必要があるのかもしれません。

管理職の皆さまへ

「あなたが部下に求めていることを、あなた自身は実践できていますか?」
「主体的に動いてほしい」と言いながら、細かく指示していないでしょうか。
「もっと考えてほしい」と言いながら、部下が考える前に答えを与えていないでしょうか。
「失敗を恐れず挑戦してほしい」と言いながら、部下の失敗に厳しい反応をしていないでしょうか。
「対話を大切にしたい」と言いながら、部下の話を最後まで聴いているでしょうか。

管理職の言葉よりも、管理職の日々の行動のほうが、部下には強く伝わります。

だからこそ、

「自分は部下に何を言っているか」ではなく、「部下は自分の行動から何を学んでいるか」

を問い直してみる必要があります。

人事・組織開発に携わる皆さまへ

そして、人事・組織開発に携わる私たち自身にも、問いがあります。

「私たちは、社員に『分からせる』ことに満足していないでしょうか?」

研修を実施した。
制度を導入した。
理念を策定した。
評価項目を変更した。
方針を発信した。

それで、本当に人や組織は変わったのでしょうか。

「理解度95%」という研修アンケート結果よりも、
「研修後、現場で何が変わったのか」のほうが重要ではないでしょうか。

「制度を導入した」という事実よりも、
「その制度によって、人の行動は変わったのか」のほうが重要ではないでしょうか。

人事・組織開発の仕事は、知識や制度を提供することだけではありません。
人が行動を変え、その行動が組織の当たり前になるところまで支援すること。
そこまで踏み込んでこそ、「人と組織を変える仕事」と言えるのではないでしょうか。

そして、すべての人に問いかけたい。

最後に、経営者、管理職、人事に限らず、すべての働く人に問いかけたいと思います。
あなたは、「分かっているけれど、できていないこと」をいくつ持っていますか?

「もっと部下と話さなければならない」
「もっと顧客の話を聴かなければならない」
「もっと周囲に仕事を任せなければならない」
「もっと挑戦しなければならない」
「もっと本音で議論しなければならない」

私たちは、すでに多くのことを知っています。

問題は、

「知っているかどうか」ではない。
「知っていることを、今日の行動に変えたかどうか」です。

だから、もう一つだけ問いかけます。

「もし、あなたが『知っていること』を一つだけ『やること』に変えるとしたら、それは何ですか?」

そして、もう一歩踏み込みます。

「それを、なぜ今日までやってこなかったのでしょうか?」

時間がなかったからでしょうか。
忙しかったからでしょうか。
自分には権限がなかったからでしょうか。
周囲が変わらないからでしょうか。
会社の制度が悪いからでしょうか。

「分かっている」ことで、どこか安心してしまっていたからでしょうか。

Knowing–Doing Gapの本質は、知識と行動の間にある。
しかし、その距離を埋める最初の一歩は、決して難しいことではないのかもしれません。

「知っている」を一つ、「やっている」に変える。

今日、一つだけ行動を変える。
その小さな変化が、やがて習慣になり、周囲を変え、組織の文化を変えていく。

約300年前、石田梅岩は「道」を説きました。
現代を生きる私たちに必要なのは、道を知ることだけではない。

「その道を、今日の仕事でどう歩くのか」。

そこに、KnowingからDoingへ、そして個人の変化から組織の変化へとつながる鍵があるのではないでしょうか。

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