▼最近広がりを見せている「サイレント退職」

ここ数年、「サイレント退職」という言葉が急速に広がりを見せている。退職の意向を直接伝えることなく、気づけば静かに職場から姿を消す。そんな現象を「サイレント退職」というが、その実態は単純ではない。

むしろこれは、現代の働き方、雇用構造、価値観、情報環境が複雑に絡み合った結果として生まれた“時代の副作用”と言えるであろう。

サイレント退職を「最近の若者の傾向」と片づけることは、問題の本質を大きく見誤る。企業と個人の関係性、働くことの意義、日本経済の構造変化。そのすべてが結びつき、今のこの現象を生み出しているからだ。

▼コミュニケーションの消失がもたらす「予兆なき離職」

テレワークが当たり前になり、飲み会や雑談はハラスメント懸念から極端に減った。かつては、何気ない会話や同じ空間を共有する時間の中で、上司は部下の状態を肌感覚で察知していた。「最近元気がない」「悩んでいそうだ」「仕事の進捗が少し怪しい」こうした気づきは、報告書でもパルスサーベイでもなく、日常のやりとりの中で自然と掴めていたものであろう。

しかし今は、予兆を捉える“チャネルそのもの”が失われた。

予兆が消えたのではない。予兆に触れる機会がなくなったのである。企業はその穴を埋めるため、アンケート、ログ監視、心理的安全性調査などで状況の把握を試みる。しかしそれらは、本人と向き合うためのものというより、本人の不在のまま「データ化」された姿だけを見ようとする方法に近い。

結果として、社員からは「監視」「犯人探し」のようにも見え、関係性の溝はむしろ深まってしまう。

▼キャリア志向の“軽量化”という現象

近年の離職理由を見ると、多くの若手が「キャリア形成」「成長機会の不足」を挙げるようになった。言葉としては実に前向きだが、そこには違和感もある。

本来キャリアとは、未経験の領域に挑み、負荷を乗り越え、失敗を経験しながら積み上がっていくものだ。ところが今、多くの若手は失敗のリスクを極端に恐れ、挑戦に対して慎重になる。一方で、“キャリアのために転職したい”という言葉だけは積極的に使う。

つまり、キャリアは「未来の自分を形づくるプロセス」ではなく、「失敗しないで済む安全な未来の設計図」へと姿を変えてしまった。これが、キャリア志向の“軽量化”である。

そこに拍車をかけているのが、SNSやネットの記事、YouTubeなどの情報環境であろう。「会社を辞めて自由になった」「転職して最高に幸せだ」といったSNSやネットの記事にあるストーリーは強い期待を生むが、その裏にある努力や苦労はほとんど語られない。リアルより“映える情報”が優先され、若手はそこに自分を重ね、自分の不満や不遇を正当化する材料を無意識に集めてしまう。サイレント退職の背景には、この「情報による自己正当化」が深く影響している。

▼雇用流動化がつくった“働く価値の希薄化”

もうひとつ大きいのは、労働市場全体の構造変化だ。派遣・契約社員・副業・業務委託など、正社員以外の働き方が当たり前になり、生活の安定が必ずしも一つの会社への定着を必要としなくなった。

本来であれば選択肢が増えることは良いことだ。しかし副作用もある。それは働くことの意味、会社と関わる意義、組織に対する貢献意識など。そういった“働く価値の根っこ”が、全体として希薄化しつつあるということだ。

この流れの中では、企業への帰属意識が弱くなり、「困ったことがあれば辞めればいい」、「居心地が悪ければ移ればいい」という思考が自然に形成されていく。そして、その最後の出口として表面化するのがサイレント退職である。

▼過保護化された労働環境と日本経済の衰退というパラドックス

近年、労働者保護の議論が進み、企業側はハラスメント、長時間労働、働き方配慮など多くの責任を負うようになった。これは間違いなく必要であり、改善すべきものでもある。

しかし一方で、本来は成長のために必要な負荷や責任までもが“避けるべきもの”として扱われ、労働観そのものが弱体化している側面も否めない。

指導するとハラスメント扱い、チャレンジを促すと過剰要求と批判され、上司は指導に萎縮し、若手は負荷の少ない選択肢を選ぶ。こうした両サイドの委縮・過保護化は、長期的には日本企業の競争力を削ぎ、結果として日本経済そのものの縮小につながるのではないかと感じる時がある。

労働者が守られるべき存在であることは大前提だ。しかし、守られるだけでは、企業も個人も成長できない。企業が弱れば、働く場所も待遇もキャリアも失われる。日本という“株式会社”自体が衰退している現状を踏まえれば、この点を避けて通ることはできない。サイレント退職の背景には、単なる個人の問題を超えた大きな構造変化が存在していると感じる。

▼解決の糸口は、結局「会話」に戻ってくる

では企業はどうすべきか。最新ツールを導入し、サーベイで状況を可視化し、ログを監視する。確かに有効な側面もある。しかし、これらは補助輪でしかない。サイレント退職の本質的な要因は、もっと根源的なところにある。

 それは、人と人との対話の欠如だ。

テレワーク時代になったからこそ、企業は意識的に“会話の場”を設計し直さなければならない。雑談の価値を再評価し、1on1の質を高め、上司側が部下に関心を寄せる文化を再構築する。形式的な育成ではなく、“あなたに関心を持っている”というメッセージを丁寧に伝えることが、離職を防ぐ最大の鍵になる。

さらに、キャリアの対話もやり直す必要があるだろう。キャリアとは本来「負荷と挑戦を通じた成長の軌跡」であることを、企業側も個人側も理解し、しっかり向き合い直さなければならない。未経験への挑戦を促し、自分の未来と地続きの経験を積ませることが、個人の自律性を育て、企業の競争力にもつながる。

▼サイレント退職は時代の鏡である

サイレント退職が増えていることは、決して偶然ではない。それは、コミュニケーションの断絶、雇用の流動化の進行、情報環境の影響、キャリア観の変質、働く価値の希薄化、労働者保護の過剰バランス、日本経済の長期停滞など。そうした全ての要素が折り重なって生まれた“時代の鏡”である。

この現象と真正面から向き合うためには、制度を変えるだけでも、ツールを導入するだけでも足りない。企業は、働く人一人ひとりと向き合い、対話を取り戻し、働くことの価値を再定義する必要がある。個人もまた、自分のキャリアをSNS的な“理想像”ではなく、現実に根ざした成長のプロセスとして捉え直す必要がある。昨今のサイレント退職は、企業と個人双方への問いかけと言えるであろう。

サイレント退職にフォーカスをあて、離職や退職について考えるのではなく、“働くとは何か”“なぜ働くのか”といった大前提となる問いを立て、一度立ち止まって改めて考えるための、大きなシグナルと言えるだろう。

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