筆者のもやもや

コンサルタント4年目を無事に迎えた三上であるが、日ごろ業務で発生するもやもやを解消するために始めた「AACコンサルタント 三上のもやもやシリーズ」も第5弾を迎えた。本シリーズは、筆者であるコンサルタント三上や他のコンサルタントたちが、日々人事制度構築や組織風土改善等を行う中で感じるもやもやをテーマとして取り上げ、そのもやもやをどのように解消できるのか、考えてみたものである。第4弾では「能力」について取り上げ、定義や運用について整理した。本コラムも引き続き能力に関するもやもやについて検討していきたい。

今回第5弾のテーマは、「能力主義から考える公平性」である。メリトクラシーとも呼ばれる能力主義は、本人の出生等の属性ではなく、能力で人材を評価し、登用する考え方である。しかし前回のコラムでも指摘した通り、能力といっても、その言葉が指す対象は人や社会、時代によって様々である。出生等本人の行動次第で変容できるようなものではない要素で報いる血統主義とは異なり、「同じ土台に立って競うことができる」という点で、能力主義がもてはやされてきた。日本における能力主義が過去、台頭してきたのも、その点のメリットがあるからである。しかし、能力評価は前回のコラムでも示したように、能力の定義が曖昧なため、年功序列的な運用となり、本来の意図である平等に基づく競争を醸成することはできなかった。とはいえ現代において、成果主義を掲げる根底には、今でも能力主義を前提とした平等観は残っている。  

能力主義は、「同じ土台に立って競うことができる」という平等観に基づくと聞こえは良いが、筆者はこの「同じ土台」に対してもやもやするところである。もし同じ土台に立てているのであれば、「努力」に対する議論の中で、環境の違いといった観点は生まれないし、公平性equityが求められる状況にも至らないはずである。ただでさえ多くの企業において、「能力」の定義が定まっていない、評価する基準が主観的であるといった状況で、本当に「同じ土台」で競うということができているのかが疑問である。よって本稿では、そもそもとしてメリトクラシー(能力主義)とは何か、現代においてメリトクラシーがどのような状態になっているのか踏まえつつ、企業における能力主義の課題を前編で示す。後編では、その課題を解決する施策について考えてみたい。

メリトクラシー(能力主義)とは

メリトクラシーとは、個人の能力や実績、努力に基づいて地位や報酬が決定される社会や組織の仕組みを指す。もともとは、ヤングの本に出てきた言葉である。昨今、自己啓発本では、「聴く力」、「質問力」、「部下力」等々、○○力というタイトルの本が見受けられる。2003年に内閣府では、「人間力戦略研究会報告書」の中で、人間力という言葉を提示している。どのような経緯かは置いておくとしても、昨今の日本社会において、何等かの力(能力)が求められている、ニーズがあるということがわかる。  

メリトクラシー以前は、本人の能力ではなく、生まれた家庭の身分や性別といった不可変の属性によって社会での位置づけが決まっていた。世襲制や封建制度等が該当する。近代社会は、このような生まれや身分で位置づけが決まる社会から資質や能力によって位置づけを決める仕組みを整備した時代であるともいえる。その典型的な事例として第一に挙げられるのは、学校教育制度である。近代社会において共通の標準化された教育内容を教え、ある一定の基準を踏まえその人の学習成果が明らかになり、その後の社会的位置づけを決定する際の参考となる。  

教育内容が標準化・共通化されたことにより、一定の基準のもと人々を選抜・配分する働きは「平等」であり、「公平」であると言われてきた。このような選抜ルールは、多くの人々の競争意欲を醸成することもできる。達成基準を超える業績や成果を獲得するためのプロセスにおいて努力する意義は、能力主義のもと大きくなった。学校では、偏差値を踏まえ目標を設定し、合格基準を達成できるように努力し、企業では、個人目標を踏まえ達成できるように仕事に取り組む。そして一定の基準を超えた成績優秀者が、より偏差値の高い高校へ行き、より会社の中での昇進が早くなるといった競争が生まれるのである。近現代の社会において、一定のルールに基づいた競争に巻き込まれ、そこでの「努力」の度合いに応じて自らの位置づけを教えられることになる。

メリトクラシーは本当に平等か?  

しかし現代における「努力」について考えた際に、先ほどのような、試験に合格して、良い成績を取ってという単純な結果だけで、本当に高い社会的地位を得られるのであろうか。近代社会において、産業構造の中で優位を占めていたのは、第二次産業であり、大量生産が求められる時代でもあった。このような産業構造の中で必要とされる労働者の「業績」というのも単純で一次元的な軸で捉えることができた。よって学校教育制度における選抜・配分の仕組みも比較的単純であり、明確な基準に沿って「努力」さえしていれば、競争で優位に立つことができていたのである。  

このような近代社会におけるロジックは相対化・再評価され、多様性や複雑性を重視する新たな社会段階に到達する。それがポスト近代社会である。ポスト近代化社会では、第三次産業の拡大があり、サービス化の促進に伴い、純粋なモノを売るだけの領域から、いかに付加価値の高い商品あるいはコトが売れるかが重要となった。このような産業の違いは、近代社会におけるフォーディズム的な大量生産による安定的・長期的な雇用の保証から、消費者の多様なニーズに応え続けるための柔軟だが必要に応じて出し入れ可能な不安定な雇用の部分を増大させることとなった。質が高く且つ柔軟性を確保するために、労働者に対しては、指示通りに動く力だけでなく、市場への高い感応性や、継続的な自己変革能力が求められることとなった。  

ここで興味深いデータを見てみよう。産業構造の変化に応じて能力も一元的なものから多元的なものに変化している。それならば「努力」の取り組み方も変わるはずである。統計数理研究所では、努力が報われるかに関する統計を1988年と2013年でとっているので見てみよう(図1)。

【図1】努力は報われるか 統計数理研究所のデータをもとに筆者グラフ作成

1988年と比較して、2013年では、どの年代も、「努力」は報われると考える人数が下がる傾向にある。また、社会人1年目の社員に対して、学生時代の努力の経験について調査したデータもある(図2)。

【図2】ラーニングイノベーション総合研究所「若手社員の意識調査(社会人1年目)学生時代の経験の影響力」(2023)より引用

46%というやや半数に近い社員は、「努力」の経験がないと認識している。このように能力の在り方が多様化している現代において、自分が「努力」をしたと感じる経験のある人や、「努力」は報われると感じる人は、昔と比較すると下がっていると考えられる。さらにラーニングイノベーション総合研究所では、この努力のようなストレッチ経験の有無によって、入社前後のギャップをポジティブに捉えられるか、ネガティブに捉えるかの違いといった興味深いデータも出している。

【図3】ラーニングイノベーション総合研究所「若手社員の意識調査(社会人1年目)学生時代の経験の影響力」(2023)より引用

以上のデータを踏まえると、何等かの「努力」を経験した人は、環境の変化によって生じるギャップを前向きに捉えることができるということであり、「会社を辞めたい」というネガティブな反応は低いことが窺える。しかし、現状「努力」が多様化し、「努力」をしていれば報われる、あるいは「努力」したという認知・経験が浅い人がいる中で、能力主義に基づく評価は成立できるのかというのは、改めて考える必要がある。特に多くの企業において、能力の定義が曖昧な中で、曖昧な基準で能力に基づく成果・業績を評価されたところで、社員からすれば納得感を担保することはできないだろう。では、多様化している能力や「努力」の在り方はどのように整理されるのだろうか。

弊社では、人事制度を構築するにあたり、「あるべき人材像」というものを策定する。いわゆるどのような人材か、その会社の理念やMVV、経営計画を実現し得る人材なのか整理したものであり、そのような人材を輩出することを、人事制度を通じて目指すのである。あるべき人材像でよく言われる言葉として、「主体性」、「チャレンジ」、「創造力」といった言葉が挙げられることが多い。近代社会における能力は、いかに基礎学力があるか、知識量があるかといった一定の尺度のもとに把握できるものであったが、ポスト近代社会において求められる能力というのは、文部科学省の「生きる力」に代表されるような、個々人の生来の資質や成長する過程における日常的・持続的な環境要件によって決まる部分が大きい能力が挙げられる。生きる力は、「変化の激しいこれからの社会を生きるために、確かな学力、豊かな人間性、健康・体力の知・徳・体」の総合ともいえる力であり、学力だけならまだしも、人間性や健康・体力まで能力として含まれるのであれば、「努力」の方法も本人の資質に由来するものだけでなく、周囲の環境に関わるところも増えてくると想定される。

わかりやすい事例として、「ガリ勉」が挙げられる。近代社会における能力の場合、ガリ勉は、脇目も降らず必死に勉強して、よい成績をとっているという点で、能力の高い人だと捉えられていた。しかし産業構造が変化し、独創的な発想、視野の広さ、コミュニケーション能力が求められる中で、ガリ勉の人はサービス産業には向かないし、管理職にも不向きな場合が多い。そして社会では、「勉強はできるが、視野が狭いし、コミュニケーション能力がない」と評価されてしまうのである。とはいえ知的優秀さが求められていないかといわれるとそうではない。コツコツと取り組み続けることができることを評価し、数字に対する貪欲さを見るという点でも、近代的に求められる能力が完全に必要ではなくなったというわけではない。

ポスト近代社会において求められる能力が多岐にわたり、その能力の獲得も本人の資質だけでなく、環境や周囲の人間との関係性が求められている中、採用される人間においても、あるいは就業している人間の中でも、その能力に対する格差、経験の格差というのは生じ得るものである。しばしば努力の過程から落ちた人間を世間ではよく努力不足故の「自己責任」であると批判する場合がある。現代におけるメリトクラシーが、皆「同じ土台に立って競うことができる」のであれば、その批判は正当化されるであろうが、はたして現代におけるメリトクラシーが本当に皆、「同じ土台」に立っているのかどうかは前述を踏まえると検討する必要がある。この検討は、企業における評価制度において、評価基準の公平性や能力の捉え方を検討する際だけでなく、企業としての平等や公平の在り方について考える上でも一助となると想定される。

後編に向けて

現代におけるメリトクラシーについて整理をしてみたが、能力や「努力」の在り方が多様化している中で、本人の資質だけでなく、環境や経験といった格差による能力の差があり得る状況である。多くの企業は、能力主義を前提とした評価制度を取り入れている。しかし、①何をもって能力とみなすのか、②能力に基づいて実現される成果とみなすのか、はたまた、③何等かの格差があることによって能力の差が生まれてしまう場合、どのような公平性のもと、サポートするのか、これらの論点が曖昧となっている企業が多数である。

後編では、これらの論点を実際に事例も踏まえつつ検討する。

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