はじめに:本コラムの開始にあたって

2026年4月。私たちが今立っているのは、かつて「人的資本経営」という言葉がバズワードとして踊っていた混迷の時代を抜け、真の実装が問われる新たなフェーズです。経営者や人事リーダーの皆様は、情報開示の義務化やリスキリングの号令といった荒波を越え、ようやく一つの本質的な問いに辿り着いたのではないでしょうか。それは、「結局のところ、私たちの組織において『人』をどう定義し、どう価値に繋げるべきなのか」という問いです。

本コラムの目的は、単なる最新事例の紹介やトレンドの解説ではありません。私たちが目指すのは、情報の洪水の中で経営と人事が進むべき真の方向──すなわち「北極星」を見つけ出すための、徹底した「思考のアップデート」です。

私は株式会社SP総研の代表として、これまで「SP総研 Daily Update」というnoteのマガジンを通じて、ほぼ毎日、人事の未来を問い直し、既存の日本型マネジメントの欺瞞に切り込んできました。この『経営人。』の「コンサルタントコラム」という場においても、その精神を継承し、経営戦略、最新のHRテクノロジー、そして国際基準の人的資本開示を一本の線で繋ぐための視座を提供していきます。特定のベンダーやサービスの宣伝に終始するつもりはありません。日本企業が直面している「人的資本経営の実装」という高い壁を、いかに論理と情熱、そしてテクノロジーによって突破するか。その一点にフォーカスを絞り、本質的な議論を展開していく決意です。

【振り返りと転換】「ジョブ」の箱から「スキル」を持った個人へ

2026年の今、改めて2年前、3年前の状況を振り返ってみましょう。少し前まで、「メンバーシップ型からジョブ型へ」というスローガンが至る所で叫ばれていました。しかし、多くの企業が陥ったのは、労働政策研究・研修機構(JILPT)の濱口桂一郎氏がかつて指摘した「OSとアプリのねじれ」という罠でした。

日本企業の根底にある「メンバーシップ型」という古いOS(基本OS)の上に、無理やり「ジョブ型」という欧米流のアプリケーションを載せようとしても、システムは正常に動作しません。ジョブ型とは本来、職務(ジョブ)という「箱」を先に定義し、そこにパズルのピースのように人をはめ込む思想です。しかし、職務の境界が曖昧で、相互扶助的な「現場の阿吽の呼吸」で回ってきた日本企業の組織構造において、この「箱」を固定化することは、かえって組織の柔軟性を奪い、従業員の意欲を減退させる要因にさえなりました。

ここで私たちが再発見すべき「北極星」は、ジョブという固定された「箱」ではなく、従業員一人ひとりが有する「(広義の)スキル」そのものです。人的資本経営における「資本」の正体とは、誰がどのポジションにいるかという形式的な配置図ではなく、その個人の内側に蓄積された能力の集合体に他なりません。

ここで強調したいのは、「経験」と「スキル」を混同する誤謬(ごびゅう)からの脱却です。我が国の人事は長らく、「営業職10年」「人事部5年」といった「経験」を能力の代用指標としてきました。しかし、2026年の市場環境において、10年の経験は必ずしも現代的なスキルを保証しません。重要なのは、経験というプロセスを経て、どのような具体的な「スキル」が結晶化されたか。そしてそのスキルが、企業の経営戦略の実行にどう寄与するのかという論理的な接続です。

なぜ今、スキルの可視化が経営戦略の実行に直結するのでしょうか。それは、不確実な時代において「何をするか(戦略)」は頻繁に変わりますが、「何ができるか(スキル)」というポートフォリオが明確であれば、戦略の変化に合わせた人材の組み替え(ダイナミック・ケイパビリティの発揮)が即座に可能になるからです。「箱(ポジション)の管理」から「能力(スキル)の流通」へ。このパラダイムシフトこそが、人的資本を「アセット(資産=管理対象)」から「キャピタル(資本=投資対象)」へと転換させるための第一歩なのです。

【テクノロジーの進化】AIエージェントが変える従業員体験(EX)

この「スキルベース・マネジメント」を空論に終わらせないための鍵が、テクノロジーの進化です。SP総研は2025年、元Workdayのディレクターであり、HCM製品開発の世界的権威である宇田川博文氏をアドバイザーに迎え、シンガポールentomo(エントモ)社との提携を強化しました。この動きは、我が国のHRテクノロジーが「管理のツール」から「共創のパートナー」へと進化するための重大な転換点でした。

かつてのHRテクノロジーは、欧米の成功事例を詰め込んだ「パッケージ」を日本企業がいかに受け入れるか、という「アメリカ流への適応」が主流でした。しかし、ラスベガスで開催された「HR Tech 2025」で示された最新トレンドは、その正反対です。AIは今や、グローバルな標準モデルを押し付ける存在ではなく、各企業固有の「現場知」や「組織文化の文脈」を学習し、共創する「AIエージェント」へとシフトしています。

宇田川氏は、生成AIを「知識豊富なMBAの新卒生」に例えています。この新卒生は、教科書的な知識は完璧ですが、自社の経営者がどのような想いで創業し、現場の従業員がどのような顧客の言葉に心を動かされているかという「コンテキスト(文脈)」を知りません。この「MBA新卒生」に、経営者のビジョン、従業員のリアルな声、そして整備されたデータを「教育」として与えることで、初めてその企業独自の価値を生むパートナーへと育つのです。

特に、entomoのようなAIエージェントやタレントインテリジェンスと呼ばれるテクノロジーが持つ「非構造データからのスキル抽出技術」は、EX(従業員体験)を劇的に変容させます。従来のスキル管理は、従業員が手入力でスキルシートを埋めるという苦痛な作業を強いていました。しかし、AIエージェントあるいはタレントインテリジェンスは、日々の業務ログ、評価記録、学習履歴、あるいは1on1のメモといったバラバラなデータから、本人が気づいていない「隠れたスキル」を自動的に導き出します。これにより、従業員は自らの「現在地」を客観的に認識し、組織内での「貢献の可能性」を自律的に見出すことができる。これこそが、私たちが提唱する真の自律型キャリア形成のメカニズムです。

ただし、ここで冷徹な警鐘を鳴らさなければなりません。(前述の「SP総研 Daily Update」というnote における2026年3月17日の記事でも触れましたが)かつてマーケティング部門が陥った「SaaSの死」の悲劇を人事が繰り返してはなりません。戦略なきテクノロジー導入は、ただ活用されないデータの山──すなわち「ゴミの山」を築くだけです。宇田川氏も指摘するように、AIに与える「栄養」がゴミであれば、出力される結果もゴミになります。泥臭いデータのクレンジングと、経営の思想をデータに吹き込むプロセスを怠った企業にとって、AIは恩恵どころか、組織を迷走させる「無用の長物」と化すでしょう。

【評価と開示】新指標「SPI」で読み解く人的資本のROI

人的資本経営の実装において、多くの企業が頭を悩ませてきたのが「情報開示」です。しかし、2026年の視点で見れば、ランキングを上げることや投資家へのアリバイ作りのための開示は、既にその意味を失っています。本来、開示とは「外に見せるためだけのもの」ではなく、「開示を通じて企業を変えるためのもの」であるべきだからです。

SP総研が提唱する独自の評価基準「SPI(Sustainable Performance Index)」は、まさに組織の構造を映し出す「鏡」として機能します。SPIは、ISO 30414(人的資本情報開示の国際規格)等の知見を日本企業の文脈に落とし込んだ17の評価項目で構成されています。この指標の真骨頂は、人事施策と財務成果の因果関係を解き明かし、人事・経営・投資家が共通の「ROI(投資対効果)の言語」で対話するためのプラットフォームを提供することにあります。

慶應義塾大学の高橋俊介氏が提言したように、私たちは今、「アセット(過去の積み上げとしての資産)」を管理する担当者から、「知的資本の投資家」へと進化しなければなりません。例えば、1億円の研修費を投じた際、それが単なる「コスト(費用)」として消えたのか、それとも「スキルという資本」へと変換され、将来の売上向上や離職率低下という「ROI」を生んだのか。SPIの17項目は、この変換プロセスを定量的に捉えます。

「人的資本のROI」を語る際、精神論は不要です。ある特定の研修や人材開発プログラムが、具体的にどのスキルの習得を促し、それがどのように顧客満足度や生産性、あるいは後継者候補のパイプラインの充実に繋がったのか。SPIという共通言語を持つことで、人事は経営に対して「これだけの投資をすれば、組織のこの部分がこれだけ強化される」という、論理的かつ説得力のある提案が可能になります。人的資本経営を「コストセンターの叫び」から「経営戦略の主戦場」へと昇華させるための武器、それがSPIなのです。

【実践事例の深掘り】PHONE APPLIに見る人的資本経営の理想形

では、具体的に「スキルベース・マネジメント」と「テクノロジーの融合」、そして「SPIによる高評価」を実現している企業の姿とはどのようなものでしょうか。その最前線を走るのが、株式会社PHONE APPLI(フォンアプリ)です。同社はSPI評価において、+71点(100点換算で85.5点)という、日本企業の中でも突出したスコアを叩き出しました。

同社の取り組みが、なぜ「表層的な開示」に終わらず、圧倒的な説得力を持つのか。その理由は、テクノロジーを単なるツールではなく、日々の仕事の「インフラ」として埋め込んでいる点にあります。具体的な成功のメカニズムを4つのポイントで解剖します。

  1. EX(従業員体験)を先行させた設計と行動データの運用
    PHONE APPLIの最大の特徴は、「制度を運用するためにシステムを入れる」のではなく、「従業員の体験(EX)を良くするためにテクノロジーを使う」という順番を徹底していることです。同社が掲げる「人々がいきいきと働く社会を実現する」というパーパスが、従業員の日常的な「働きやすさ」や「つながり」の設計に反映されています。
  2. スキルベース1on1と信頼性あるスキルタクソノミー(体系)による適材適所
    同社では、独自のスキル体系(スキルタクソノミー)に基づき、上司と部下が共通の言語でキャリアを語り合う「PA 1on1」を実践しています。個人の「やりたいこと(Will)」と「できること(Can)」をスキルベースで可視化することで、主観やバイアスに頼らない、科学的な適材適所が実現されています。
  3. HRテクノロジー(PA PEOPLE等)を業務に埋め込む運用力
    同社が提供する「PA PEOPLE」や、感謝を贈り合う「THANKS(サンクスカード)」といったツールは、特別なイベントとしてではなく、毎日の業務の中で自然に使われています。この「業務に埋め込まれた(Embedded)」運用によって、鮮度の高い、嘘のない行動データがリアルタイムで蓄積されます。
  4. 後継者計画の定量開示と人的資本ROIへの橋渡し
    蓄積されたデータは、最終的に経営の最重要課題であるサクセッションプラン(後継者計画)へと集約されます。どのポストに対して、どのようなスキルセットを持つ候補者が何名存在し、その育成のためにどのような投資が必要か。PHONE APPLIはこれを定量的に開示し、人的資本への投資が将来の企業価値(ROI)にどう貢献するかというストーリーを見事に構築しています。

大林代表取締役が語る通り、同社は人的資本を「EX × スキル × データ」の掛け算で運用しています。この実践の蓄積があるからこそ、その開示内容は投資家にとっても非の打ちどころのない説得力を持つのです。

おわりに:持続可能なパフォーマンス(SP)を目指して

最後に、本コラムを締めくくるにあたり、経営層と人事リーダーの皆様に強くお伝えしたいことがあります。人的資本経営を、決して「仲良しクラブ」や「従業員への過度な甘やかし」という名の現状維持に終わらせてはなりません。

私たちが提唱する「Sustainable Performance(持続可能なパフォーマンス)」とは、個人が心身の健康を保ちながら、プロフェッショナルとして最大限の貢献を続け、それによって組織が成長し続ける循環を指します。そこには、健全な新陳代謝と、厳格な自律が不可欠です。

(前述の「SP総研 Daily Update」というnote における2026年3月20日の記事でも論じたように)今や「所属(会社の一員であること)」を誇る時代は終わり、「貢献(どのようなスキルで価値を出すか)」を証明する時代へと移行しました。これは、長年「メンバーシップ」に守られてきたシニア層にとって、一見厳しい変化に見えるかもしれません。しかし、「何者でもない自分」から「スキルのプロフェッショナル」へと脱皮することは、個人が人生100年時代を幸福に生き抜くための唯一の道でもあります。全世代がプロフェッショナルとして輝き、テクノロジーという翼を得て、自らのスキルを社会価値へと変換していく。そのような組織こそが、真の人的資本経営の実践者です。

本コラムでは、今後も「思考のアップデート」を提供し続けます。「人的資本経営」を精神論やポエムで終わらせない。SPIという冷徹かつ温かい「鏡」で現実を直視し、AIという強力なパートナーと共に、誰もが「貢献」を通じて自己実現できる未来を創る。

持続可能なパフォーマンス(SP)の実現に向けて。私たちが指し示す「北極星」が、皆様のキャリアの旅路を照らす一助となれば幸いです。共に、2026年以降の新しいマネジメントの地平を切り拓いていきましょう。

この記事を読んだあなたにおすすめ!

こちらの記事もおすすめ!
お役立ち情報
メルマガ無料配信

お役立ち情報満載!ピックアップ記事配信、セミナー情報をGETしよう!

人事のプロが語る、本音のコラムを公開中

人事を戦略に変える専門家たちが様々なテーマを解説し、"どうあるべきか"本音 で語っている記事を公開しています。きっとあなたの悩みも解消されるはずです。


お役立ち資料を無料ダウンロード
基礎的なビジネスマナーテレワーク規定、管理職の方向けの部下の育て方評価のポイントまで多種多様な資料を無料で配布しています。ぜひご活用ください。