この記事はシリーズです。前回分は以下リンクから確認できます。

人事屋のひとりごと 経営会議には出てこない話                シリーズ第6話:人事制度が形骸化する本当の理由

人事制度や育成体系の設計支援を日々行っている、経営コンサルタントが綴る「人事屋のひとりごと」。経営には出てこない話を交えながら、最近の人事あるあるをひとつ語らせていただきます。
登場する組織や人物はフィクションですが、きっとどこかに実在しているようなリアルを込めてお届けします。

人事制度は、たいてい「ちゃんとしている」。
少なくとも、書類の上では。

等級制度もある。評価制度もある。報酬制度もある。
外部の知見も入れて、説明資料も作って、社内説明会もやった。
ここまでやって「制度がありません」とは、さすがに言えない。

むしろ、制度設計だけを見れば、よくできている会社は多い。
理念との整合性も取れているし、ロジックも破綻していない。
制度改定の背景や狙いも、資料の中ではきれいに説明されている。

それでも、ふとした打ち合わせや、評価後の雑談で、こんな言葉を耳にする。
「制度はあるんですけどね」

この「けど」の後に続く、言葉にならない間。
この微妙な空気感こそが、人事屋のひとりごとの源泉だ。

人事制度はある。でも、回っていない

そもそも、多くの企業で「人が足りない」状態が常態化している。
厚生労働省「労働経済動向調査」でも、正社員等の労働者について「不足」と回答した事業所は5割を超えている(*1)。つまり、人事部だけの問題ではない。
現場も、管理職も、慢性的な人手不足の中で制度運用をしている。

正直に言うと、人事制度が機能していない理由は、制度設計の出来不出来ではないことがほとんどだ。
問題は、もっと身も蓋もないところにある。
人事が足りない。

これは、経営会議ではなかなか正面から語られない。
「人事部の体制が足りていません」と言えば、「効率化できないのか」「DXで何とかならないのか」という話になる。

もちろん、正論だ。
限られたリソースで成果を出すことは、どの部門にも求められている。
人事だけが例外扱いされる時代でもない。

ただ、現場で起きていることは、もう少し複雑だ。

人事部は、静かに業務が増えている

最近の人事部は、とにかく忙しい。しかも、その忙しさは外から見えにくい。
評価運用、異動配置、育成施策、労務対応。
そこに、人的資本開示、ジョブ型、リスキリング、DEI、ガバナンス。

実際、経済産業省の調査でも、「人的資本情報の開示を担当する人員が不足している」と回答した企業は3割以上である(*2)。
近年の人事部門は、従来の労務・評価運用に加え、「人的資本をどう説明するか」まで求められるようになった。
新しいテーマは増える。しかし、そのために既存業務が減るわけではない。

一つひとつは「やらなければならないこと」ばかりだ。
しかも、それぞれが考える仕事であり、判断する仕事であり、説明責任を伴う仕事でもある。

単純作業ではない。マニュアル化もしにくい。人の感情や納得感にも、常に配慮が必要だ。

問題は、これらが足し算で増えていくことだ。
新しいテーマは増えるが、古い仕事が減ることはほとんどない。

結果として、人事部は「制度を考える部門」から「制度を何とか回し続ける部門」へと役割が変わっていく。

人事部長と話していると、よく出てくる言葉がある。
「忙しいんだけど、前に進んでいる感じがしない」

これは、怠慢でも能力不足でもない。構造の問題だ。
人事制度が運用フェーズに入ると、判断、調整、説明という仕事が一気に人事部に集まってくる。

  • 評価コメントの粒を揃える
  • 評価会議の論点を整理する
  • 昇格・異動の妥当性を説明する
  • 制度の趣旨を現場に伝える

本来はラインマネジメントが担うべき領域も、「最後は人事が見てくれるだろう」という期待のもとで、人事部に集約されていく。
結果、人事部は、制度を“使う側”ではなく、制度を“支え続ける側”になる。
これが、忙しいのに手応えが残らない理由だ。

人事制度は「運用」で静かに壊れる

人事制度は、作った瞬間が一番美しいのかもしれない。ロジックは整い、理念との整合性が取れている。けれど、人事制度は運用されなければ意味がない。そして、その運用は想像以上に体力を使う。

人が足りない。
時間が足りない。
説明する余裕が足りない。

その結果、何が起きるか。

  • 前年踏襲の評価
  • 水面下で決まる異動
  • 育成はスローガンで終わる

誰かが悪いわけではない。
ただ、回し切れなくなっているだけだ。

制度は残り、運用だけが痩せていく。
これが、人事制度が形骸化する本当の理由だ。

経営会議で語られない「運用の現実」

人事制度の話題が経営会議に上がるとき、多くの場合、論点はとてもクリアだ。

  • この制度は戦略に合っているか
  • 他社と比べて遜色はないか
  • メッセージとして妥当か

どれも大切だし、間違っていない。ただ、その場で語られることはほとんどない話がある。
「この制度、誰が回すのか」という問いだ。

制度を設計する議論と、制度を回し続ける現実の間には、思っている以上に大きな溝がある。

制度を入れることは決まっても、それを日々の評価や配置、育成の場面でどう扱い、どう説明し、どう納得させるかは、たいてい“現場任せ”か“人事任せ”になる。
経営会議の議事録には残らないが、人事部のカレンダーには、確実にその負荷が積み上がっていく。

人事部長の頭の中で起きていること

人事部長という立場は、少し特殊だ。
経営の言葉も分かるし、現場の言い分も分かる。

だからこそ、板挟みになる。

「制度としては正しい」
「でも、現場はそう簡単じゃない」
「とはいえ、ここで揺らぐと制度が崩れる」

この“分かっているがゆえの葛藤”は、なかなか言語化されない。
会議では前向きなコメントをしながら、内心では

「今年も、評価の調整は相当しんどくなりそうだな」

と感じている。

制度の正しさと、運用のしんどさ。
その両方を引き受けているのが、人事部長という役割だ。

現場の管理職も、実は疲れている

もう一つ、経営会議に出てこない視点がある。それは、現場管理職の疲弊だ。

評価シートは埋めなければならない。
フィードバック面談もしなければならない。
育成計画も書くことになっている。

でも、日常業務は減っていない。

結果として、管理職はこう思う。

「ちゃんとやりたいけど、正直ここまで手が回らない」
「人事が言う“理想の運用”は分かる。でも現実は…」

この“言えない諦め”が積み重なると、制度は少しずつ形だけになっていく。
誰かがサボっているわけではない。ただ、全員が限界に近づいているだけだ。

なぜ「人事が足りない」は議論されにくいのか

「人事が足りない」という言葉は、とても扱いにくい。

  • 甘えに聞こえる
  • 効率化不足と言われる
  • DXで解決すべきだと返される

だから、人事自身もどこかでこの言葉を飲み込んできた。
でも、ここで言う「足りない」は、人数の話だけではない。

  • 判断する余力
  • 言語化する時間
  • 説明しきる体力

こうした見えないリソースが足りなくなっている。

それを無視したまま、制度だけを高度化しても、運用は必ずどこかで息切れする。

それでも、人事は制度を守ろうとする

少し皮肉な話だが、制度が回らなくなってきたとき、一番踏ん張るのは人事だ。

評価会議の前夜に資料を整え、現場からの相談に一つひとつ応え、制度の“例外”をギリギリのところで調整する。

そうやって、人事は制度を守る。

ただ、その努力はあまり可視化されないし、評価されることも少ない。
結果、制度は延命されるが、人事の疲労だけが蓄積していく。

AIに飛びつけない、人事の正直な気持ち

海外は生成AIに対して「新規の価値創出」や「イノベーション」を重視しているのに対して、日本企業では、「業務効率化」や「人手不足の解消」を期待する傾向が強いという(*3)。
それだけ、“余力がない”ことの裏返しと感じられる。

人事部門でも、AIは「未来を変える道具」というより、「今を回し切るための補助線」として期待されている側面がある。

だからこそ、「AIを使えばいい」という話に、人事はどこか慎重になる。
便利なのは分かっている。効率化できる場面も、確かにある。

でも同時に、こうも思う。

「説明できない使い方はしたくない」
「現場の信頼を失う方が怖い」

人事にとって一番のリスクは、ミスよりも不信だ。
だから、AIは“何でも任せる道具”ではなく、“慎重に使う補助線”として扱われる。

この距離感もまた、経営会議にはあまり出てこない話だ。

それでも、立ち止まるわけにはいかない。
人事が足りない現実は、この先もすぐには変わらない。だからこそ、制度をどう設計するか以上に、どう回し続けるかを考えなければならない。

完璧を目指さない。
全部を抱え込まない。
判断すべきところに、力を残す。

それが、「人事が足りない」時代における人事制度との付き合い方なのだと思う。

人事×AIは救世主か?という問いへの違和感

最近、「人事×AI」という言葉をよく聞く。効率化、合理化、判断の高度化。

ただ、人事屋として少し引っかかる。AIは、人事の代わりにはならない。

評価を決めるのも、配置を決めるのも、最後に責任を負うのは人だ。
この前提は、どれだけ技術が進んでも変わらない。だから、AIに期待すべき役割は別のところにある。

人事が“考えるため”の余白をつくる

AIが役に立つのは、判断そのものではなく、判断の前段だ。

  • 情報を整理する
  • 文章を下書きする
  • 論点を見える化する

そうした仕事を肩代わりしてもらうことで、人事は「考える仕事」に戻れる。

これは、経営会議ではあまり語られない話だ。しかし、人事制度を回す現場では、かなり切実なテーマでもある。

人事が足りない時代の、現実的な選択

人事制度を完璧に回し切る余力は、もう多くの組織にはない。

それを前提にしない限り、「制度が悪い」「運用が弱い」という議論を、何度も繰り返すことになる。だからこそ必要なのは、「全部やろうとしない」覚悟だ。

何を人がやるのか。
何を手放すのか。
どこまで説明責任を引き受けるのか。
AI活用は、その整理の延長線上にある。

人事屋のひとりごと

人事制度は、設計よりも運用のほうがずっと難しい。
そして運用は、たいてい経営会議の議題にはならない。
でも、そこが回らなくなると、どんな立派な制度も、静かに意味を失っていく。

「人事が足りない」
この一言を、気合や効率化の話にせず、何が足りていないのかを構造として考えてもいい時期かと思う。

制度そのものではなく、“制度を回し続ける余力”に目を向けることが、これからの人事には必要なのかもしれない。

参考URL

1.労働経済動向調査(令和8(2026)年2月)の概況 厚生労働省
https://www.mhlw.go.jp/toukei/itiran/roudou/koyou/keizai/2602/dl/4kekkagaiyo.pdf

2.人的資本経営に関する調査結果(詳細) 人的資本経営コンソーシアム事務局
https://www.meti.go.jp/policy/economy/jinteki_shihon/pdf/2024survey2.pdf

3.令和7年度版 情報通信白書 総務省
https://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/whitepaper/ja/r07/pdf/00zentai.pdf

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