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はじめに:2026年、人的資本経営は「二極化」の決定打を迎える
2026年という年を、そして4月からの新年度を、私たちは格別な高揚感、あるいは言いようのない焦燥感とともに迎えています。かつて「人的資本経営」という言葉がバズワードとして持て囃されていた混迷の時代を抜け、今私たちが立っているのは、真の実装が問われる新たなフェーズです。
昨年末、私はイタリアの地で現地のHR Techベンダーや最前線のエンジニアたちと対話を重ねてきました。そこで確信したのは、世界は今、人間とテクノロジーが「スキルデータ」を鍵に完全に共生する次元へと、不連続なシフトを遂げたということです。一方で、欧米のトレンドと言いつつも、私たちが目にしているのは事実上「北米」のトレンドに過ぎないという現実も直視しました。欧州、特にイタリアの慣習や考え方には、実は我が国に近い「人間中心」の視座が根付いており、これからの日本企業の変革において極めて重要なヒントが隠されていると感じています。
2025年を通じて、我が国の人的資本開示は「義務化」というステップを経て、一見すると大きな進歩を遂げたかのように見えます。しかし、数多くの企業の報告書をSP総研が開発した人的資本開示評価の独自指標SPI(Sustainable Performance Index)で分析してきた私にとって、この一年は「本質への到達」と「形式への逃避」の二極化が、もはや修復不可能なほど決定的なものになった一年でもありました。
本稿では、昨年末から年始にかけて提示してきた「人的資本開示の幻想」へのアンチテーゼを整理し、2026年の最重要キーワードである「エージェント型AI」の衝撃、そして日本企業が陥りやすい「スキルの蜃気楼」という罠について、徹底的に切り込んでいきたいと思います。
2025年の総括:先行事例が残した「盲点」と「課題」
2026年を読み解くために、まずは2025年に私たちが目撃した「先行事例」の光と影を振り返る必要があります。私はSPIという「鏡」を用い、我が国を代表する企業の開示姿勢を分析し続けてきました。
例えば、エーザイが示した「柳モデル」による財務連動のロジックは、投資家に対する科学的な証明として極めて秀逸であり、世界的に見ても一つの到達点であることは疑いようもありません。しかし、SPIの視点からその深層を覗き込むと、ある重大な「盲点」が浮かび上がります。それは、マクロな相関性の裏側で、個々の従業員がどのような具体的な「詳細なスキルの単位で」能力を持ち、それが組織全体のポートフォリオとしてどう機能しているのかという、ミクロな実態がブラックボックスのままであるという点です。どれほど美しい数式で人への投資を語っても、その中身であるスキルの実態が見えなければ、真の持続可能性(Sustainable Performance)は担保できません。
一方で、日清食品ホールディングスが見せたブランディングの熱量や、変革に向けた強力な意志は、日本企業の停滞を打ち破る力強さに満ちています。しかし、ここにも課題はあります。その溢れんばかりの熱量が、具体的にどのようなROI(投資対効果)として経営指標に結びついているのか。感情や文化の力は強力ですが、グローバルな資本市場と対話するためには、その「熱量」を科学的なロジックへと昇華させる「実(実態)」が必要なのです。
2026年は、この「理(ロジック)」と「意(意志)」に、テクノロジーによる「実(実態の可視化)」が加わらなければなりません。世間が「研修時間」や「離職率」といった、誰にでも作れる表面的な「結果の数字」に一喜一憂している間に、私たちはその手前にある「EX(従業員体験)」の質や、HRテクノロジーによるスキルの可視化というプロセスに、厳しい評価のメスを入れていく必要があります。

2026年の激震:ジョシュ・バーシンが説く「エージェント型AI」の正体
この「実」を証明するための最大の武器、そして最大の変化要因となるのが、2026年に本格的な普及期を迎えた「エージェント型AI(Agentic AI)」です。
世界的なHRアナリストであるジョシュ・バーシン(Josh Bersin)氏は、2026年を「エンタープライズAIの年(The Year of Enterprise AI)」と位置づけています。これまでのAIは、私たちが問いかけたことに答える「優秀なアシスタント(Copilot)」に過ぎませんでした。しかし、今年登場しているのは、目標を与えれば自ら判断し、他部署のシステムと連携して仕事を完結させる「エージェント」です。
バーシン氏が提唱する「システム的人事(Systemic HR)」への進化は、人事業務が単なる事務管理から、AIを駆使した「組織R&D」へと移行することを意味しています。採用、評価、そしてリスキリングの提案までが自律型AIによって統合されるこの時代において、企業の生存を左右するのは「スキルの習得速度(Skills Velocity)」に他なりません。
AIエージェントは今や、欧米の成功事例を詰め込んだだけの「パッケージ」ではなくなりました。各企業固有の「現場知」や「組織文化の文脈(コンテキスト)」を学習し、共創するパートナーへとシフトしています。
SP総研のアドバイザーを務める宇田川博文氏は、生成AIを「知識豊富なMBAの新卒生」に例えています。
この新卒生は、教科書的な知識は完璧ですが、自社の経営者がどのような想いで創業し、現場の従業員がどのような顧客の言葉に心を動かされているかという「コンテキスト」を知りません。この「MBA新卒生」に、経営者のビジョン、従業員のリアルな声、そして整備されたデータを「教育」として与えることで、初めてその企業独自の価値を生むパートナーへと育つのです。
【警告】スキル可視化の「蜃気楼」と「ノーヒント抽出」の罠
しかし、テクノロジーの進化がもたらすのは光だけではありません。現在、市場を賑わせている「AIによるスキルの自動可視化」という甘い誘惑について、私はここで冷徹な警鐘を鳴らさなければなりません。
「SlackやTeamsのログを読み込ませるだけで、従業員のスキルが魔法のように可視化される」――。この耳当たりの良い言葉に飛びつく企業が後を絶ちませんが、そこには恐ろしいほどの「蜃気楼」が広がっています。
「推論の根拠」というブラックボックス
私が最も危惧しているのは、AIが「何を根拠にそのスキルタグを付けたのか」という実態の希薄さです。実情を詳細に見ていくと、読み込ませているコミュニケーションデータや日々の雑談、あるいは「ありがとう」という感謝のメッセージには、客観的なスキル推論のための情報がほぼ含まれていない、いわば「ノーヒント」の状態であることが少なくありません。
それにもかかわらず、AIはハルシネーション(もっともらしい嘘)を交えながら、それなりの数と種類のスキルを勝手にタグ付けし、もっともらしいプロフィールを生成してしまいます。これは「スキルの可視化」ではなく、AIによる「自己紹介文の創作」に過ぎません。本人の意志(Will)も、具体的な実績(Can)も伴わない「幽霊タグ」や「ゴミタグ」が闊歩するデータベースが、経営戦略の実行に耐えうるはずがありません。
「タクソノミー」という土台なき抽出の虚無
さらに深刻なのは、多くのツールが、企業固有の、あるいは標準的な「スキルタクソノミー(スキル体系)」という確固たる物差しをまともに持っていないという事実です。
タクソノミーという基準がない中でAIが気まぐれに抽出するワードは、単なる連想ゲームのような「単語の羅列」に過ぎません。そのワードが、自社の戦略上どのような位置づけにあり、どのレベルにあるのかを定義できないまま、ただ検索に引っかかるように並べることは、経営における「人的資本の把握」を放棄しているのと同じです。最近になって慌てて外部からタクソノミーを調達し、後付けで整合性を取ろうとする動きも見られますが、土台のない建築物に後から柱を差し込むような危うさを感じざるを得ません。
EX(従業員体験)への致命的なダメージ
SP総研が開発した人的資本開示評価の独自指標SPI(Sustainable Performance Index)の基準において、こうした「人間が介在しない安易なAI抽出」は、迷わず“Bad”と判定されます。
自分の知らないところで、AIが勝手に「あなたはこういうスキルを持っています」とレッテルを貼る体験は、従業員の主体性を奪い、会社や人事への不信感を募らせる要因となります。SPIが「エンゲージメントよりも先にEX」を重視するのは、従業員が自らの意志で自らの価値を定義し、組織内での「貢献の可能性」を自律的に見出すプロセスこそが、真の人的資本経営のメカニズムだと確信しているからです。
解決策としての「セルフジョブ定義」と「人間とAIの共創」
では、私たちはどのようにして「蜃気楼」を抜け出し、本質的な人的資本経営を実装すべきなのでしょうか。
かつてマーケティング部門が陥った「SaaSの死」の悲劇を、人事が繰り返してはなりません。戦略なきテクノロジー導入は、ただ活用されないデータの山――すなわち「ゴミの山」を築くだけです。AIに与える「栄養」がゴミであれば、出力される結果もゴミになります。
SP総研が提唱する解決策は、AIを一方的な「判定者」として使うのではなく、対話を通じて本人の内面を深掘りする「伴走者」として活用する「セルフジョブ定義」的なアプローチです。
AIエージェントが、1on1のメモや学習履歴、あるいは評価記録といったバラバラなデータから、本人が気づいていない「隠れたスキル」を導き出し、それを人間との対話(AI面接やチャット等)を通じて確認・定義していく。
このプロセスには、必ず「人間(Will)」の介在が必要です。AIが導き出した候補に対し、従業員自身が「これは私の強みだ」「この方向に伸ばしたい」と意志を乗せることで、初めてそのデータは「資本」としての血が通い始めます。テクノロジーを人間の可能性を拡張するために使うのか、それとも単なるコスト削減の道具にするのか。その「志」の差が、SPIのスコアに、そして企業の将来価値に直結するのです。

SPIという「ROIの言語」で経営をアップデートする
人的資本経営を「コストセンターの叫び」から「経営戦略の主戦場」へと昇華させるためには、人事・経営・投資家が共通の「ROI(投資対効果)の言語」で対話するためのプラットフォームが必要です。
SP総研が開発した人的資本開示評価の独自指標SPI(Sustainable Performance Index)は、まさにそのプラットフォームとして機能します。ISO 30414などの国際基準を日本企業の文脈に落とし込んだ17の評価項目は、組織の構造を映し出す「鏡」です。
私たちは今、「アセット(過去の積み上げとしての資産)」を管理する担当者から、「知的資本の投資家」へと進化しなければなりません。例えば、1億円の研修費を投じた際、それが単なる「コスト(費用)」として消えたのか、それとも「詳細なスキルの単位で」資本へと変換され、将来の売上向上や離職率低下という具体的なROIを生んだのか。SPIは、この変換プロセスを定量的に捉えます。
精神論やポエムによる開示は、2026年の資本市場ではもはや通用しません。特定の研修や人材開発プログラムが、具体的にどのスキルの習得を促し、それがどのように顧客満足度や生産性の向上、あるいは後継者候補のパイプラインの充実に繋がったのか。SPIという武器を持つことで、人事は経営に対して「これだけの投資をすれば、組織のこの部分がこれだけ強化される」という、論理的かつ説得力のある提案が可能になるのです。
おわりに:持続可能なパフォーマンス(Sustainable Performance)を目指して
2026年、私たちは「所属(会社の一員であること)」を誇る時代から、「貢献(どのようなスキルで価値を出すか)」を証明する時代へと完全に移行しました。
これは、長年「メンバーシップ型の仕組み」に守られてきた人々にとって、一見厳しい変化に見えるかもしれません。しかし、「何者でもない自分」から「スキルを持ったプロフェッショナル」へと脱皮することは、個人が人生100年時代を幸福に生き抜くための唯一の道でもあります。全世代がプロフェッショナルとして輝き、テクノロジーという翼を得て、自らのスキルを社会価値へと変換していく。そのような組織こそが、真の人的資本経営の実践者です。
形骸化した「開示のための開示」という墓標を積み上げるのは、もう終わりにしましょう。SPIという冷徹かつ温かい鏡で現実を直視し、AIという強力なパートナーと共に、誰もが「貢献」を通じて自己実現できる未来を創る。
持続可能なパフォーマンス(Sustainable Performance)の実現に向けて。本コラムが指し示す「北極星」が、皆様のキャリアの旅路を照らす一助となれば幸いです。共に、2026年以降の新しいマネジメントの地平を切り拓いていきましょう。
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