▼自立型人材という言葉への違和感

自立型人材が求められるようになって久しいが、この言葉を耳にするたびに、私は一抹の違和感を覚える。自立型人材とは、一般的に「自分で考え、判断し、行動できる人材」を指す。確かにそれは、これからの時代に必要な能力である。しかし現場で若手社員や新入社員と対話していると、「自立」を“好き勝手に動くこと”と混同しているケースが少なくない。

たとえば、上司や組織の方針を理解しないまま「自分はこう思う」と動き、それが自立的な行動であると勘違いしているのである。このような場合、結果が出れば「自分の判断が正しかった」と自負し、結果が出なければ「教えてくれない会社が悪い」と責任を転嫁する。このような構図は、近年の“自立”礼賛の副作用でもあると感じている。本来求められる「自立」は、組織の理念や目的を理解したうえで、自ら考え、行動すること(自律)だ。「勝手に動くこと」ではなく、「方向を共有した上で、自分で舵を取ること」。この差が、組織を活かす“自律”と組織を乱す“身勝手”を分ける境界線である。

▼自立と自律/似て非なる二つの概念

「自律」と「自立」を明確に区別される。“自立”が「他者に依存せず生きる状態」を意味するのに対し、“自律”は「自分を律し、自らの規範に従って行動すること」である。つまり“自律型人材”とは、「仕事の目的や意義を理解し、自分の内的な動機によって自己抑制を惜しまずに行動できる人」を指す。その核心は「自分で動くこと」ではなく「意味を感じ理解して動くこと」にある。しかし、先に話した通り、現場ではこの“自律”を「自由」と取り違える若者が多い。「考える自由」は組織にとって歓迎すべきものだが、「好き勝手に動く自由」は組織の秩序を崩す。

真に自律した人は、自由を手にしても自らを律する。

逆に、未熟な“自立志向”は、自分の正義に酔い、組織を軽んじる方向に傾く。自律とは、自己中心ではなく、自己規律と共感の両立である。ここを見誤ると、組織の信頼関係は一瞬で崩れる。

▼テレワークがもたらした「誤った自律」

コロナ禍によるテレワークの普及は、この問題を一層複雑にした。多くの企業が働き方の自由を与えたが、それと引き換えに“組織的方向性”の共有が希薄になった。「自律的に働け」と言われても、そもそも“どの方向へ向かうのか”を理解していなければ、ただの孤立である。私は、テレワークを「効率的な個人作業の場」としては評価しているが、「組織全体の効率」を高める手段としては懐疑的である。なぜなら、テレワークでは偶発的な会話や暗黙知の共有が起こりにくく、組織の合意形成が脆弱になりやすい。その結果、個々が「自分の正義」で動くようになり、組織内のベクトルが分散してしまう。つまり、テレワーク環境における“自律”は、組織との信頼と理解が前提でなければ成立しない。どれだけ自己管理能力が高くても、方向性の共有がなければ、それは“自律”ではなく“分離”である。

▼「自律」と「成果」を混同しない

自律型人材の育成を語る上で、もう一つ重要なのは「成果との混同」である。多くの企業が「自律的に動ける人材」を評価軸に置くが、それを成果と短絡的に結びつけてしまうと、本質を見誤る。自律は能力ではない。人は誰しも自律性を備えており、ただ“ある対象に対しては発揮されていない”だけである。つまり「自律型人材を育てる」とは、「その人が意味を感じられる対象を与えること」に他ならない。研修やスキル教育ではなく、「なぜこの仕事をするのか」を共有することこそが、真の育成であろう。

▼自律の発揮を阻む組織構造

では、なぜ企業は自律型人材を求めながら、それを育てられないのか。多くの場合、壁となるのは「管理職」である。管理職がプレイヤー業務に追われ、部下の行動に“余白”を与えられない。あるいは、「自分が自律的にやってきたから、お前もそうしろ」という同調圧力を無自覚に発してしまう、また高圧的な表現ではなく、部下を放置・放任したとしても同じことである。この構造は、部下の自律性を著しく削ぎ、先に話した通り間違えた方向に進むことに繋がる。真に必要なのは、「なぜ動けないのか」を共に考える姿勢であり、管理職自身も自律型人材を再定義する必要がある。部下に“任せる勇気”を持ち、失敗を許容し、対話を通じて成長を促す。そしてそれは放置・放任になってもいけない。それが、いまの時代のリーダーシップである。

▼自律と組織理念の接点/“意味の共有”こそが教育

自律型人材の核心は、「仕事に意味を見出しているかどうか」である。ここでいう“意味”とは、組織の理念・目的と自分の価値観を結びつける接点のことだ。この接点を見失った状態では、どれほど主体的に動いても“身勝手”にしか過ぎない。企業が自律型人材を育てたいなら、まず問うべきは「理念をどう伝えているか」であろう。ミッション・ビジョン・バリューを言語化することだけでは足りない。日常の業務や対話の中で、「この仕事は何のためにあるのか」を繰り返し共有すること。それが、組織の“軸”を形作るのである。

私自身、組織人事の現場で感じるのは、理念を“掲げる”企業は多いが、“体現する”企業は少ないということだ。自律とは、理念と現場が結びついたときに初めて発揮される。理念を実感できる仕組みがない組織に、“自律型人材”は生まれない。もし生まれたなら、それは身勝手な行動である可能性の方が高いと言えるであろう。

▼「育てる」ではなく「育つ」ための環境設計

また「自律型人材は育てるものではなく、育つもの」でもある。つまり、自律とは外から教え込むものではなく、内側から芽生えるもの。だからこそ、企業がすべきは“強制”ではなく“土壌づくり”と言えるであろう。

たとえば、1on1ミーティングの実施もその代表的な施策といえる。ただ、形だけの「やりたいことある?」という面談では意味がない。むしろ、「どんな瞬間に仕事が楽しいと思えるか」「どんな場面で自律的に動けたか」を丁寧に振り返り深掘りする場にすべきであろう。そうした対話を通じて、本人が“自分の中の自律”に気づく。この気づきこそ、教育の核心と言えるのではないだろうか。

▼変化の時代における「自律」の再定義

高度経済成長期、日本企業に求められたのは「言われたことを正確にやる人材」だった。しかし、いまの時代は真逆である。市場は複雑化し、答えのない課題が増えた。だからこそ、状況を読み取り、自ら判断する“自律型”が求められる。ただしそれは、“個人の自由な判断”を称えることではない。あくまで「組織の目的を理解した上で、自ら動ける人」である。その意味で、自律型人材とは“自立的で協調的な人材”なのである。自己完結ではなく、他者との連携の中で自分の意思を発揮する存在である。

▼自律を、誤解のまま放置しない

「自律型人材を育てたい」という言葉は、美しい響きを持つ。だが、その言葉が独り歩きし、“放置や放任”また“強要”にすり替わる危険をはらんでいる。真に自律した人材とは、組織の理念と個人の意思が交わる点に立つ人である。つまり、自律とは“独立・孤立”ではなく“共立”と言えるであろう。人が自ら考え、動くためには、まず組織がその意味を示さなければならない。そして、行動の自由の中に、信頼と規律という見えない糸を通すこと。それこそが、現代の“自立型人材育成”の本質である。

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