前回のおさらい:福利厚生から「ウェルビーイング」へ(「マイナスをゼロ」から「ゼロからプラス」へ)

前回のコラムでは、これからのVUCAの時代、あるいは深刻な労働力不足に直面する日本企業において、なぜ「ウェルビーイング(身体的・精神的・社会的に良好な状態)」が必要とされるのかを整理しました。

特に、日本では「福利厚生」という独自の仕組みにより、企業が社員の生活や健康をサポートするアプローチとして、今日まで長く機能してきた伝統的な手段であったこと整理しました。つまり、ウェルビーイングへの取り組みは、福利厚生の延長線上にあり、その役割が時代とともに進化した姿が「ウェルビーイング」であるとも言えます。

一方で、かつての福利厚生は、不健康や不満といった「マイナス」を「ゼロ(通常状態)」に戻すための生活保障、あるいは労働力を再生産するための補助的な側面が強いものでした。しかし、これからの時代に求められるウェルビーイングの本質は、個人のポテンシャルを最大限に引き出す「ゼロからプラスへ」を実現することであるという思考転換にあります。

そして、ウェルビーイングが難しいのは、福利厚生のように「一律に施策を提供した=価値提供」にはなりにくく、一人ひとりの状況や属性によって、その効果や受け止め方が異なるという非常に高い個別性を持っています。だからこそ、単発・一律の施策ではなく、「心理的安全性」や「自己実現の支援」を通じて、社員が心身ともに充実し、自発的にエネルギーを発揮できる環境づくりが重要であり、これそのものが経営課題にもなり得ることを言及しました。

なぜ今、企業にウェルビーイングが必要になったのか:人的資本の掛け算で考える

では、なぜ今、企業経営の文脈でこれほどまでにウェルビーイングの向上が重要視されているのでしょうか。単にVUCAの時代だから、労働人口が減少しているからというような説明だけでは不十分であるような気がします。

筆者は、ウェルビーイングが企業の持続的な成長の重要な基盤ともいえる「従業員エンゲージメント」の向上に直結するからだと考えます。

日本においてウェルビーイングや人的資本への投資が大きな注目を集める契機となったのが、2020年に経済産業省から公表された通称「伊藤レポート(人材版伊藤レポート)」です。このレポートは、一橋大学名誉教授の伊藤邦雄氏を座長とする検討会がまとめたものであり、人材を「費用(コスト)」ではなく、価値を生み出す「資本」として捉える「人的資本経営」の必要性を強く提唱しました。

さらに、「伊藤レポート」によって示された問題意識は、その後さらに進化を遂げています。同じく伊藤邦雄氏を座長として設置された経済産業省の「人的資本理論の実証研究会」の議論では、「人材への投資がどのように企業価値に結びつくか」を定量・定性の両面からロジカルに検証する取り組みが行われました。この研究会などの議論において、持続的な企業価値の向上をもたらす「人的資本投資」のメカニズムは、次のような掛け算の概念で表現されています。

企業価値を高める人的資本の最大化=
①経営戦略実現のための能力・人材ポートフォリオの確立 × ②能力の発揮度

この公式を分解すると、企業がウェルビーイングに取り組むべき本当の理由が見えてきます。

① 経営戦略実現のための能力・人材ポートフォリオの確立
どのようなスキルを持った人材が、どこに、何人必要なのかを定義し、採用や配置、リスキリングなどを通じて揃えていくプロセスです。企業側が主体となって「戦略的に構想し、実現していく(ハード・仕組み)」の領域といえます。

② 能力の発揮度
いくら完璧なポートフォリオを揃えたとしても、そこにいる社員一人ひとりが「持てる力をどれだけ注ぎ込めているか」という領域を示します。これは社員個人の状態や心理に依存する要素が非常に大きい(ソフト・意志)のが現実です。

どれほど優れた経営戦略があり、優秀な人材(能力)が揃っていても、この「②能力の発揮度」が低ければ、掛け算である以上、企業価値の創出も小さくなってしまいます。したがって、企業が持続的に価値を創造していくためには、この「②能力の発揮度」をいかに高い状態で維持できるかという環境整備が不可欠になります。この「能力をしっかり発揮できる土台(コンディション)」を作るためのアプローチこそが、まさにウェルビーイングの向上であると考えます。

ウェルビーイングとエンゲージメントの関係性に潜む「誤解」

ここで、ウェルビーイングという概念には、私たちが意識を改める必要がある「誤解」について言及をしたいと思います。それは、ビジネスシーンにおいて「ウェルビーイング」という言葉が、どこか崇高に捉えられてしまい、エンゲージメントよりもさらに上位の概念として「最上位の経営概念」かのように語られがちである、という点です。

しかし、これまで解説してきたウェルビーイングの概念は、果たしてそれほどまでに崇高なものなのでしょか。

ウェルビーイングという言葉は、決して手の届かない難しい抽象概念ではありません。端的に言えば、「社員が社会的、精神的、身体的に健康な状態であること」、つまり人間がパフォーマンスを発揮するための「一番の土台(前提条件)」を指す言葉です。

「土台(状態)」があって初めて「関係性(熱意)」が生まれる

「ウェルビーイング」と「エンゲージメント」の2つは、明確な「土台と結果」の階層関係にあります。

  • ウェルビーイング = 個人の「状態(コンディション)」
  • エンゲージメント = 組織と個人の「関係性(つながり・熱意)」

企業がどれほど素晴らしい経営理念を掲げ、魅力的なエンゲージメント施策(ビジョンの共有や挑戦的なプロジェクトの付与など)を打ったとしても、肝心の社員個人の土台(ウェルビーイング)が崩れていては、その施策は心に響きません。

日々の過度な業務で心身が疲弊している、あるいは職場の人間関係に悩み「安心して本音を言えない」と怯えている状態の社員に対して、「会社のビジョンに共感して、もっと主体的にコミットしよう!」と求めても、それは土台や柱のない家に屋根を架けようとするようなものです。

社会的・精神的・身体的に健康であり、心理的安全性に守られているという「まず個人のウェルビーイングが高められた状態」が確保されて初めて、社員には周囲や未来を見渡す心の余裕が生まれます。そしてその余裕が、「この組織のために、もっと自分の力を発揮したい」「この仲間と社会に貢献したい」という、企業へのエンゲージメント(貢献意欲)へと昇華していくのではないでしょうか。

企業が取り組むべきウェルビーイング施策:ポイントは「制度×風土」より先に“運用設計”

ウェルビーイングの議論は、単なる”施策の一種”になった瞬間に失速します。企業で必要なのは、「何をやるか」だけでなく、誰が責任を持ち、何を指標に、どう回すかという運用設計です。

そのうえで、打ち手は大きく3領域に整理できます。

仕組み(ハード):発揮度を阻害する“構造”を変える

  • 自律性(裁量)の付与:フレックス/リモートを「制度として置く」だけでなく、職種・等級・業務特性に合わせて運用ルールを再設計する
  • 評価制度の再点検:数値目標だけでなく、プロセスや協働行動、チーム貢献を評価可能にし、「燃え尽きる人が評価される」構造を是正する

関係性(ソフト):管理職の“日々の行動”を変える

  • 1on1の質の引き上げ:進捗確認ではなく、コンディション・キャリア観・詰まりの把握を扱う(面談の目的を定義し直す)
  • 称賛・感謝の可視化:称賛文化を「良い話」で終わらせず、行動事例を言語化して横展開する仕組みにする
  • 心理的安全性の担保:サーバントリーダーシップやアンコンシャス・バイアスは研修だけで終わらせず、評価・登用・配置と連動させる

健康投資・環境整備:予防につなげ、重症化を防ぐ

  • ストレスチェックの形骸化防止:実施がゴールになっていないかを点検し、産業医・カウンセラーへのアクセス設計(予約導線、匿名性、周知)まで整える
  • オフィス環境:集中と回復が両立するゾーニング、働く場所の選択肢など“回復可能性”を設計する

まとめ:企業に求められる「支援」の時代へ

これからの時代、企業が社員に対して「ただ健康でいてくれ」と願うだけ、あるいは「一律の福利厚生を配るだけ」の時代は終わりました。

個人の価値観が多様化し、不確実性が高まる現代だからこそ、企業が社員一人ひとりの社会的、精神的、身体的な健康状態に関心を寄せ、社員のウェルビーイングを戦略的に「支援」していくことが強く求められています。

  • まず個人のウェルビーイング(状態)を高める。
  • その結果として、組織全体のエンゲージメントが高まる。
  • そして、能力の発揮度が上がり、企業価値につながる。

この構造を正しく理解し、社員という最高の「資本」の土台を整えることこそが、VUCAの時代を生き抜く企業に求められる真の人的資本経営のスタートラインであると考えます。

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